「伊方の家」通信 No.1 2013/12/21

 12月16日、いよいよ本格的な常駐ということで八幡浜にやってきた。17日には鎌田さんが送り出し会をやって下さるという話もあったが、16日に戻ってくると約束していたこともあり、意を決してやってきた。もとより、正月はこの地で過ごすことは織り込み済みである。

 途中、松山に立ち寄り、何人かに12・1後の状況等について話を伺った。その中で経産省資源エネルギー庁が作成したエネルギー基本計画のことが話題になった。原発を重要電源と謳い、原発の維持・推進を骨格とするこの計画が閣議決定されるなら、それは「国策」という位置を持ち、政権はそれでもって自治体をも縛ってくることになり、規制委での規制基準適合判断と相まって、かさにかかって再稼働へと押し寄せてくるだろう。原発現地の闘いからすれば、3・11の経験をもってしても尚、再び「国策」と位置づけ直される原発維持推進、その具現としての再稼働に立ち向かっていく重さに思いやらされた。

 翌日、テントひろばのKさんに早速電話で話す。エネルギー基本計画が閣議決定される前に、大規模な対経産省行動に取り組んでいくことはできないか、テントが先頭にたってそれを呼びかけてやっていくことはできないか、18日に予定されているという運営委員会に是非それを提起して、議論してほしいと。

 今、地方の地域社会・自治体の中からは、もう国策には唯々諾々とは従わない、そんなことしていれば自分たちが滅んでしまう、自分たちで地域再生へ手探りで進んでいく、という自治・自立の気運が保守層の中からも芽生えてきているとういう話も伝え聞いている。再稼働阻止の闘いはきっと、地域の人々の命と暮らしをめぐるそのような闘いとなるのだろう。

 17日、戻ってきた挨拶を近藤さんと斉間さんに電話でする。近藤さんは明日再び入院の予定だそうだ。クリスマスイブの日に手術をし、正月は病院で過ごすことになるそうだ。本当になんとか元気になっていただくことを祈らずにはおれない。

 18日、今日の新聞に来4月の伊方町長選に先日のH氏に続いて、前副町長のH氏、現町長のY氏が立候補するという記事が載っていた。乱戦模様になる方がいろいろな動きが出てきて議論も広がるかも。町長選になんとか原発問題を焦点化する方策はないのだろうか。

 夜、八幡浜原発から子どもを守る女の会の忘年会がM子さんの治療院でおこなわれ、それに参加。女性5人、男性3人の集まりであった。この地域の豊かな食材を使った手料理のご馳走を食べ、お酒も飲んで、話は絶えることなく弾む。その中で深く胸を衝いたのは斉間さんの伊方の闘いの話であった。伊方の闘いで被差別部落の人々の闘いが最も徹底していたということは昨年夏に斉間さんから伺い強く印象に残っていたことであったが、日頃差別され、蔑まれてきた被差別部落の人々が、この闘いの先頭に立って人間としての誇りと輝きを放っていたという指摘は、私に水平社宣言の一節を思い起こさせた。そして斉間さんは、あの時の部落のおばちゃん、おっちゃんの顔は今も頭に焼き付いていて、それだから私はこの闘いをやめることはできない、と仰った。胸に迫り来るものを感じながら、ともに闘いたいと改めて心に刻む。

 19日の愛媛新聞のトップに、規制委の審査は川内・玄海が先行していて伊方が僅差で続いている、という更田のインタビューが載っていた。早速、その記事をFAXでたんぽぽ舎に送信。こちらでもその記事をめぐっていろいろな憶測・感想が電話で飛び交う。結局大方の意見は、予定より遅れているのはいいが、同時再稼働に打って出るのでは・・・ということであった。

 20日、M子さんに同行して三崎に向かう。途中、斉間さんのところでできればまいて欲しいというチラシ(標題は「なぜ原発が怖いのか~原発事故のとき、どう身を守るか~」という講演会のチラシ)を受け取る。八西トンネルを抜けると風が強まり、伊方町役場あたりを通るときは暴風雨のようであった。三崎に着くと雨は小止みになっていたが、風は強く、時折風速30m/秒くらいと地の人がいう風が吹いていた。

 漁協の直売所のおばさんとアレコレ話す。11月30日は4時に閉めたそうでその後にバスが着いたということであった。太刀魚漁のこと、三崎漁協のこと、放射能のこと、漁業の将来のこと・・・。その後、斉間さんから預かってきたチラシを戸毎に配って歩く。雨は完全に上がっていた。

 八幡浜に帰り着いたときには、風も収まり、晴れ間が覗いていた。     (Y・T)

◄ indexへ戻る